お正月といえば「おせち料理」。
正直、好きな人も嫌いな人もどちらもいるでしょうね。
伊達巻やカマボコといった好物ばかり摘まむ人。
田作りやお煮しめは苦手だから食べたくないという人。
毎日食べるから飽きる。という人。
ゴージャスな高級料亭などのおせちだから嬉しいという人。
まったくやらないという人もいるのではないでしょうか。
ちなみに我が家は子供のころから割と正しいっぽいお節を食べてきました。
ただ、うちの母は料理が大の苦手だったので、中身は市販品のものばかり。
お重にきちんと盛り付けてはくれましたが、どれもあんまりおいしく感じられず、伊達巻とかまぼこばかり食べていた記憶があり、正直好きではありませんでした(笑)。
今日は、そんなおせち料理の起源なんかを改めて見つめてみようかなと思います。
お節料理の起源とは?
今の我が家はワンプレートで、子供のころから好んで食べていたかまぼこと伊達巻、それから子供の頃は嫌いだったけど、今は大好きな黒豆と田造。
そして夫婦で大好物の魚卵(いくら、カズノコ、飛子、子持ち昆布など)から何種類かをチョイスして飾っています。
痛風の人にはお見せできないワンプレートです(笑)。
特にこだわりがないので食べなくてもいいような気もするのですが、やっぱりお正月。
少し形だけだけど、それっぽいスタイルのものを食べたいなと思い、毎年作っています。
まったく何もしないと、何となく違和感が残るからです。
どうして違和感なのかなぁ?と不思議になり、まずは、どうして正月におせち料理を食べるのかを調べてみました。
「御節料理」という言葉の語源を紐解けば、答えは簡単に見つかりました。
今は行われていませんが、1年を5つの節句に分けて祀った「節会」に供される料理を「節供(せちく、せつく)」と呼んだのが始まり。
五節句とは、1/7の「人日(じんじつ)」、3/3「上巳(じょうし)」、5/5「端午」、7/7「七夕(しちせき)」、9/9「重陽(ちょうよう)」の事を指し、このうちお正月に当たる人日の節供が現代のお節の起源とされています。
今でもこれらの日付には縁起のよさが残ります。
重陽はちょっとマイナーかもしれませんが、菊祭りなどはここに合わせて行われるという名残を残していますよね。
さて、五節句を祀る節会ですが、もともと宮中行事でした。
年間で一番縁起がいいとされる元旦を別格とし、それプラス五節句の節会を行っていたのですが、明治時代の到来とともに廃止されています。
では、いつからやっていたのか。というと、五節句を区切る考え方のもととなっている五行思想が伝来してからといわれていますので、軽く見積もって奈良時代。
なんと。おせち料理は奈良時代に始まっていたんですね。
美味しかろうがまずかろうが、そんな長い間食べ続けているものを欠いたら、それは違和感が残るはずです
もう、DNAのどっかに、しみ込んでいるんですね。きっと。
現代のおせち料理のスタイルになったのはいつ?
さて、何かしら食べないとどうも違和感が残る理由は何となくですが納得いったので(笑)、今のような「おせち料理」スタイルになったのはいつなのかをもうちょっと深堀してみてみましょう。
もともと宮中行事だった節会ですが、その中でも五節句は江戸時代中期ごろに庶民にも広がっていったといわれています。
節会で供される食事は五節句の節供ごとに適したものが用いられていました。七夕の素麺などは今でもその名残を残しているものといえるでしょう。
こうした中で一番豪華な節供となったのが人日の節句に供されるお正月料理で、江戸時代の武家社会の正月作法がベースとなって発展していきます。
一年で一番重要な節目でもあることから、その時々の時流を踏まえながら品数を増やしていったようです。
おせち料理に入っている品々にはそれぞれに縁起を担いだ意味が込められていることはよく知られているかと思います。
ここにも縁起担ぎにこだわる江戸文化が深く関連しているのがよくわかります。
お正月料理は当初は三方に飾るなどしてお供えしたり食べたりしていましたが、やがて膳に盛るものや、お重に詰めるものへと形を変えていきました。
それらが融合してお重に詰められるようになり、現在の形に収まったのは明治時代に入ってからと割と最近の事。
それまでは各家庭で作られていたおせち料理が重詰めで販売されるようになったのは昭和に入って戦後になってからと言いますから、本当につい最近までおせち料理というのは手作りが当たり前だったんですね。
まとめ
いかがでしたか?
改めてちゃんと調べてみると、スタイルはさておき、お正月におせち食べなきゃな、と思わせる日本人のDNAを感じてしまいますね。
今度のお正月のおせち料理は、全部とはいかなくても、なにか一つ二つ、手作りにチャレンジしてみるのもいいかもしれません。